不調とは、自分自身に対する評価が一定程度あった上で、その評価に達していない状態だと定義すれば…撮れた写真に対して、とにかく不調だという感想しか出てこない。
自分の写真に対する考え方は、得たインスピレーションについてのアウトプットであり、自己の内省の現れであり、無意識の感情の現れだ。
それが、ここ1年弱、平凡な記録写真のようなものしか撮れなくなっている。原因はいろいろ心当たりがあるが、もはや表層的な原因だけではないのかもしれない。表層的な要因がいくつも積み重なった結果、自分の無意識下に影響を与えているのかもしれない。
そんなことを考えて、迷ったときに昔よく使っていたメソッドである、村上春樹作品をひたすら読むということをしていた。今まで最も多く読んだ本は、芦部憲法でも潮見民法でもなく、神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)だ。
「これは試練だ。人の成長は、未熟な過去に打ち勝つことだ…」とディアボロは言ったが、私たちはあまねく体に石を持ち、自分の中身を明け渡してしまうのだ。
私たちの人生は勝ち方によってではなく、その敗れ去り方によって最終的な価値が定められるとすれば、この敗れ去った人生を、とにかく自分であり続けながら生きていくことに意義があるはずだ。
極簡単な言葉で言えば、1年前…1月前…1日前に見えていたものと、今見えているものが、おそらく急激に変わっていることが原因なのだと思う。その変化を受け止め、自分自身の内面について整理して、未熟な過去に打ち勝ち、前に進んでいかなくてはならないのだ。
10数年前に初めて、神の子どもたちはみな踊るを読んだ自分は、蜂蜜パイを作ることができる人間にもうすぐなれるのだろうか。
2019年上半期の日記